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久しぶりに村上龍さんの本を読みました。
以前から存在は知っていたけれど、文庫本の後ろの文章を読んで、なんとも合わなそうな感じだったので敬遠してきました。
もともと青春系が苦手だったのと、何だか時事的な政治もののように思えたものですが、読んでみると結構爽やかな青春ものでしたね。笑

物語というより、村上龍さんの高校生時代の自伝に近い感じですかね?
青春時代を全力で楽しもうとする感覚がとても共感できるものでした。

以下にあらすじ。
両親とも教師をやっている主人公の健介。成績優秀であるが、遅刻早退や問題ごとを起こすなど、さまざまな部分で素行不良なので教師たちから目をつけられている。
健介の友達の炭鉱町出身で容姿端麗のアダマや、バンド仲間の岩瀬などがいる。

アダマとつるんで、学校をバリケード封鎖したり、学生だけでの大きなイベントを主催するなどがこの話の本筋です。
ハッタリだけで生きている健介とそれを冷静にみているアダマの描写が村上龍さんの作品にしては珍しくコミカルに描かれていて、そういう部分も中々新鮮で面白く読めました。

青春の醍醐味というのは、「あり余るエネルギーの発散」というところですかね。
あとがきにもあるように、『楽しんで生きないのは、罪なことだ』というのがテーマに思えます。

本を読んで、「共感」という言葉はなるべく使わないようにしているんですが、この作品は読んでいる最中、共感できる部分が沢山ありました。
(共感という言葉を使うことは、イコール考えることを放棄するというものに繋がると考えています。批評する時に一番楽なのは、全くその通りだ!と言うのと全く駄目だ!という二択だと考えるからです。)

現代社会では「我慢」というものが徳とされているのでしょうか。
実際に全力で楽しんで生きているという人を見ることはあまりありません。

そういう自分が全力で楽しんでいるかと考えると、言葉につまるところはありますが、それでも可能な限りは楽しんでいるように思えます。
しかし、社会は可能な部分も見ようとしないで、自ら楽しむことを放棄しているように思えます。

それは楽だから、と考えるのが妥当かなとも思います。
楽だからという理由で我慢を選んでいるのに、「辛い辛い」というのはいかなるものかと、そういうことです。

時給一万円の人がそこそこに働くのと、時給八百円の人が必死に働いて「頑張って生きています」と言うのを比較するのと似ているかも知れません。
時給八百円の人が努力するポイントは、一生懸命働くことではなく、一生懸命時給を上げる可能性のある道を選ぶことでしょう。
作品でも「何故わざわざそれを選択したのか?」というような問いかけをしているようにも思えました。

作品のあとがきにも、『現在では「どう楽しんで生きるか」ではなく「どうやって生きるか」という基本的な問いが必要だ』とあります。
生き方の選択肢はいくらでもあるのでしょう。
それでも、自分は最も楽しめるように生きるやり方を模索したいと思っています。

そういうことじゃないでしょうかね。
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久々にじっくりと読んだ本。じっくりというか、咀嚼するのにひどく時間がかかったという方が正確ですね。
あとがきに村上龍さんのコメントがありました。

「これは破滅的なストーリーである。自分と向かい合う旅、それを実践した女性の話だ。自分と向かい合うのは危険なことだ。麻薬や宗教や芸術やセックスは(それに幻影でさえも)、自分と向かい合うのを避けるために存在している。自分は何者か?などと問うてはいけない。自分の中に混乱そのものがあるから、ではなく、まったく何もないからだ。内部と外部といういい方はもう既に嘘なのだ。存在するのは関係性だけ、あとはすべてのっぺらぼうの表面だけだ。」

どちらかというと、あとがきじゃなくて読む前に欲しいコメントでしたね。笑

簡単に言うと、日本人の元風俗嬢が世界を旅する話です。
旅、という概念が一般のものとは違ったものですが。
あと、異能力的な表現が使われているところが村上龍さんの作品の中では珍しいなと感じました。

ものの意味とは何かというその根底にあるものが描いてあるように感じます。
人が言葉や画像や映像などのオブジェクトに対して持つそれぞれのイメージ。
それらが人に対してどう作用しているのか。
そういったことが書いてあるように感じられましたが、いかんせん表現が抽象的かつ難解なので理解できたとは言えません。

ただ物語を通して読んでいる最中、言葉というものに対して考えを巡らしていました。
目的があって作られたのが言葉。言葉が意味を持つのは当たり前のことです。
しかし、その意味合いは一概ではない。
日本語と英語の違い、同じ意味合いでもニュアンスの違いなど、言葉の意味の違いもありますが、例えば日本語の中の言葉に対しても一人一人の中に持っている意味やイメージなどはそれぞれ違うでしょう。
今まではあえてそういうことを考るということはしませんでしたが、改めてそこに凄い違和感を感じます。

あとがきで村上龍さんが言っていることも遠からずなことだと思います。
「意味を問うてはいけない」と言うが、絶えず意識的にも無意識的にも意味を問うてしまうのが人間というもの。
思考のための定義も自分で決めたものなんだから、それ以上の発展はないと最初から分かっているようにも思えます。
それを踏まえた上で「では意味とは何でしょうか」と問い始めることに意味はあるのか。

それを探究する作品、というように自分の中でとらえています。
しかし、何十行かの日本語では表せない作品だということも事実です。

面白い作品だったので、何度か読んで少しずつ消化できるといいんですが。
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見ていてハシは体が震えてきた。涙が出そうになった。嬉しくて気が狂いそうだった。車のシートを掴み叫び出しそうになるのを我慢した。しかし我慢しきれずに車から出ようとした。Dが制止した。口を押さえた。ハシは、おかあさん、と叫ぼうとしていた。車の中で暴れた。産み捨てた女は精神異常ではなかった。乞食の老婆でもなかった。普通の女で、貧乏で一人暮らしでさびしそうで笑わなかったのだ。昂奮が収まると、ハシは恐くなってきた。あの、理想的な母親が自分を拒絶するかも知れないと思い異常な恐怖に襲われたのである。間違いなく自分は涙を流しながらあの女の胸にとび込むだろう、抱きしめて貰おうとするだろう、その時あの女が怒って突きとばしたら、そう考えるとわけがわからなくなった。

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ここ最近は自分の中で名作だと思うものばかりを読んでいます。
この作品もその一つで、村上龍さんのもので一番好きなものです。

最も有名かな?そうでもないか。
これが30年も前に書かれたものとは思えないほど先鋭的です。先鋭的で言葉あってますかね?笑

また、長編ものとして上下巻に分けるにしては薄い文庫本。
しかし、中身はとても重厚です。

常に集中力の切れない文章が続き、無駄なシーンが一切ないように感じられます。
最近の小説だと無駄なシーン(物語に何の干渉もしない会話のシーンなど)が多くて、それを見るたびになんだかなあと思ってしまいますが、この作品は無駄なものがほとんどありません。脂肪を限りなく削ぎ落した筋肉質な細身の体というような印象を受けます。

物語は、コインロッカーに産み捨てられて唯一生き残った二人の少年キクとハシを描いたもの。
二人に共通するのは爆発的な破壊のエネルギーと愛を追い求める姿。

捨て子として育った人間が母親を『憎くて仕方がない』というのはあまりに普通で面白くない。
上記に書いたのは、ハシが母親らしき人物を見たシーンですが、それだけで生に対する絶対的な愛を感じます。表面的には憎いとするべきだが、抗えない愛の感情という感じです。

それがこの作品のひとつのテーマだと思います。
もう一つは、破壊の衝動。

破壊の感情というのはどこからくるものなのか、不思議に思います。
例えば「体を動かす」ということで脳内でドーパミンが出て快感を感じるというのは、その作用によって体を動かすことを促し、イコール生存活動を自然に行うということに繋がるという要因が考えられます。
しかし、破壊の衝動にはそれがないように考えられます。

例えばライオンが鹿を狩るときに「破壊してやろう」と思って追いかけているかというと、そうではないですね。大根を引き抜くのと同じような感覚ではないかと思います。
どちらかというと闘争本能が要因でしょうか。

そこで一般的に存在する破壊の感情はというと、社会性による要因が大きいように感じます。
まあ社会の起こりも闘争本能による流れもあることを考えると同一のものなのでしょうか。

何が正しいのかなんて難しいもんですね。
とりあえず名作であることは間違いないので、頭の悪さを露呈しないように多くを語らないようにします。笑


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わたしが死んだとき葬式で誰が泣いてくれるだろうと考えることがあるとミユキは言った。そんなことには意味がないとわたしは思った。自分の葬式を見ることはできないからだ。だが、自分の葬式を眺める方法が一つだけあるのだと彼女は言った。

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文庫版で初めて読んだので気付かなかったのですが、とんでもないタイトルです。(副題(?)はハードカバーのみに書いてあります)
一見、ハウトゥー本かと思ってしまうようなタイトルですが、内容は全然関係ありません。

村上龍さんのタチの悪い下ネタジョークですね。この点に関してはあまり好ましく思っていません。
同じようなことを他の人も思っていたらしく、タイトルに関しては非難轟々です。笑

実際に本を読んでも捉えづらいあらすじを簡単に。

「わたし」は複数の人間に「プラントハンター」と呼ばれるビジネスをしていた。
それは他者からの依頼で女性をオーバーホールするという仕事だった。
所有者が「壊れた」と思った女性を回復させる、もしくは長期的に預かるというものである。

夢を見ているような感覚で「わたし」は庭園の中にいた。
スーツの上にレインコートという格好で、持っているものはミユキが残した「明日からここに住みます」と書かれたメモだけ。記憶にあるのはミユキの言っていた「自分の葬式を見る」という話と、今ミユキを探しているという事実だけ。

目の前の現実と記憶は一致しない。
夢のような空間の中で、記憶を一つずつ手繰り寄せていく。


少々アバウトに書きましたが、こんなところです。
決して、「2日間で4人の女とセックスする方法」が書かれた本ではありませんね。笑

見解は難しく、ある人から見ると「金を転がすのが得意で道楽の限りを尽くした人間がアブノーマルな性のステージを無意味に開拓しようとしている話」というものにもなるようです。

本当にそれだけの話ならば、あれほどの奥行きは作れないと思うので、そうではないと自分では思っていますが、今一フォローしにくいものです。
自分でもそう思っているというのが一点。性の描写や、人間性の構築の流れからその不動性についてまで、価値観の広がりを感じられるような肉厚な話が随所に見られたという点もあります。

また、以前の記事に書いた、「SMは最も深いところで矛盾を抱えている」というフレーズ。SMの是非について。
これは以前より自分が思っていたけど、中々表現できなかったことの一つでした。

作中でも語られていますが、サディストとは支配欲を持つ者。
その支配欲の起こりとは、コンプレックスが要因となる。
お金が十分にある人はお金に対する欲はあまりないけど、お金がない人は必要以上に欲しがる、という考えの発展系ですね。

つまりサディストが欲しがるものというのは、より手に入りがたいもの、より希少価値の高いものであるはずが、一般的なSMのプレイでは比較的手に入れやすいもので行われる。手に入りにくいものは、常識的に手に入らないというギャップですね。

それと作中では上記と合わせて語られてはいないけど、SMの重要な要因が「立場」による状況だということ。
サディストが求める価値と、サディストとマゾヒストの力量関係のシーソーゲーム感が、どこまでいっても究極形に辿り着かないように思われます。また、その立場作りの究極型は現実的にはほぼ不可能だということ。

要はそのいたちごっこに終わりがないために、ある妥協点が必要になっていて、それによってどこまでいっても「支配ごっこ」になってしまうのではないかということです。

経験則がないために、客観視点からの意見にはなりますが、イメージプレイを例に挙げてみると
「イメージプレイは真の愛だよ。実際に経験してみて、さらに究極まで突き詰めてみないとこれは分からないよ」 と言われても、「いやあ、それは流石にごっこでしょう」 と言わざるをえないというものです。

と長々とSMに関する見解でしたが、「何も知らない奴じゃ分からないよ」と言われてしまいそうですね。
それも仕方ないことです。


ともあれ、作品自体は中々読み進みにくいものではありましたが、中身のあるものでした。
読んでも損はないという感じです。

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気が付くと小田桐は硝煙の漂うぬかるんだ道を行進していた_

調査官は何かに気付いて小田桐の手許をじっと見てから、言った。
「時計が五分遅れているぞ」

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『五分後』の世界に迷い込んでしまうというパラレルワールドの話ですね。

五分後の世界では日本は戦闘国家として世界の注目の的となっていた。地下に国家を築き、人口はたったの26万人。しかし、その人口全てが国家に対して献身的に素晴らしい働きをしている。

戦争もの(?)と言ってしまっていいのか分かりませんが、あまり戦争系の文学は苦手なんですけど、とても素晴らしい作品だと思いました。
何故戦争ものが苦手かというと、意思を持った何かと何かの戦いといったようなものを見ると、そのクオリティは別としてとりあえず満足してしまうからです。作品の良さが判断しづらくなってしまうんですね。非常に個人的ですが。

誰もが命を賭して生きている五分後の世界を『気に入った』と小田桐は言ったが、
五分前の世界のことは『お節介でお喋りで吐き気がする』と表現した。

戦前は良くて、戦後はダメなんて意見はどうかと思いますが(そういうことを言っている作品ではないですが)、確かにと思うところもあります。
平和ボケが世に広まると、中国製はダメとか当たり前のことで騒いでしまうような人も大量に出てきてしまいますね。やかんが熱いかどうかくらいは自己管理する必要があるということです。


五分後とは何か?

単純に考えると、五分の間で違う選択をした結果の世界ということですかね。
作品を細かく辿るのも時間がかかるので、wikipediaの年表を参照しました。

作中では、1945年の7月に 旧日本軍の技術者の地下司令部への移動開始、その後に広島長崎に加えて小倉新潟舞鶴へも原爆投下とされているから、その辺の選択でしょうか。戦うことを選択した世界。


教育と思想の究極形のようなものを見た気がしました。
確かに効率性や全てのクオリティが高いというのは分かるのですが、こういうものを見ると人の負の要素にもある程度の意味があるんじゃないかと思ってしまいますね。
自分が怠けものだからでしょうか。笑


戦闘の臨場感やその世界を生きる人間のリアリティなど、こういう思想もあるということを知る意味でも一見の価値はあると思います。


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『この国は何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない。』

エクソダスとは、大量の国外脱出の意。


パキスタンとアフガニスタンとの国境で、日本人の少年が地雷で負傷したとのニュースがメディアを騒がせた。テレビに映るその少年は現地部族と生活を共にし、溶け込んでいた。
日本のメディアのインタビューに対して、彼はこう言い放った。
「あの国には何もない、もはや死んだ国だ」

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本来なら不用意に「この国はダメだ」とか「希望がない」といった発言をするものはスルーをしていたが、今回はそうもいかなかった。
個々の能力値による経済状況、経済の潤いと教育とのバランスについて。

この話は極論化したあらゆることを現実的に描いている。

作中では、パキスタンの少年の影響を受けて、全国の60万人ほどの中学生が一斉に登校拒否を選んだ。そんな話はあり得ないと思う。
だが、現実を見るとあり得ないという一言では終われない。

学校から離れ、起業の道を選んだ中村君やポンちゃん達。実力を持った未成年はいくらでも存在するし、いくらでも発生させることが可能だ。
その道を選ばずに、惰性で学校教育を勧める根拠は何だと考えさせられた。

村上氏は、そして惰性の学校教育も否定はしていないと思う。
自分の体験を考えても、中学校の時代などは特に意味をなしていないと思った。しかし、自分の価値観で測る意味なんてものは、どれほど意味をなしていることだろう。

決して言い訳ではなく、「意味のないものなどはない」と考えることができた。


思想的には、「文明の発展に際する本能の欠如」がメインテーマではないかと思います。

これもとても考えさせられるテーマ。
そして日本とはその理想的なモデルになる国でもあると思う。


理想的な教育、経済とは何だろう。そしてそれを得ることが本当に正しいのだろうか。

簡単な言葉では語りつくせない内容ですね。


しかし、村上氏の描くキャラクターは魅力的ですね。
今回の作品なんかは思想が先行きしていて、ストーリーの比重が軽かったと思うけど、それでもASUNAROという団体、それを率いるポンちゃんなどの存在は魅力的でした。

娘にあすな、と名づけてしまう主人公も。笑


未来がどう行こうと、そこに希望があるように行きたいですね。



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